光武帝の金印

「倭人の礼には漢の礼を尽くして応えよ。」
中国の後漢時代。建武中元元年(西暦56年)、倭奴国王の使者・大夫が初めて漢の首都・洛陽へ到った。
国を発って半年、小船で海を渡り馬に揺られて大陸を進む、長く険しい旅だった。
朝貢のため宮殿を訪れ、通された一室にはすでに他国の使者が控えていた。
「あれは南方諸国の者。持っているのは宝石の包みでしょう」
朝鮮・楽浪郡から付き添ってきた若い将校が大夫に耳打ちした。
確かに、彼らは皇帝に捧げるにふさわしい宝石の数々を持参している。
それに比べて、奴国の貢物はいかにも見劣りがした。
「貢物をここへ。謁見の日取りは追って知らせる。」 
漢の小役人の異国悟も、大夫には「どこの蛮族か」とさげすむように聞こえる。 
(謁見は許されるだろうか・・・)大夫の心は重たかった。
彼が謁見の日を待つ間、宮殿の奥では廷臣たちが、倭人に与える賜物の件で皇帝に申し出ていた。
「我ら侯公にしか与えられぬ印章を、野卑な倭人に賜る必要がございましょうか」
「それにあの貧弱な貢物」一同はうなずいた。 
「ひかえよ」 遮ったのは皇帝である。
「いかに小国とはいえ、奴国王は一国の王。はるばる使者を遣わした奴国の誠を知れ。倭人の礼には漢の礼を尽くして応えよ!」 
年老いた光武帝が久々に放った一喝で、賜物は決まった。
年が改まり、建武中元二年正月、大夫はようやく光武帝に謁見を許された。
宮殿から宿に戻った大夫は頬を紅潮させ、小箱を抱えていた。
中に印章が納めてあるという。楽浪の将校が勧めるまま、大夫はふたを開けた。紫の綬(組みひも)をした金印だ。
印面には「漢倭奴国王」と彫ってある。
「これは!」将校は驚きを込めて言った。
「皇帝が贈られる最高の栄誉だ。」 
大夫は放心したように黄金の輝きに見入っていた。
光武帝は、はるばる運んだ貢物を快く受け入れられた。
そればかりか、この金印を贈って奴国をひとつの独立国として認められたのだ。 
光武帝から金印を倭奴国王へ。「さ、吉報を一刻も早く奴国へ。」将校の言葉に大夫は力強くうなずいた。
国宝・金印は、昭和54年11月、福岡市美術館の開館を記念して黒田家から福岡市へ贈られた。
大夫が見入った輝きはおよそ二千年の時を超え、市民がともに持つ贈りものとなった。

名槍「日本号」
名槍「日本号」

「日本一に呑み取られるなら、こいつも本望。」
文禄五年(1596年)正月。京都伏見城下の福島正則の屋敷に、隣家・黒田長政の名代が新年の祝賀に訪れた。
黒田家第一の槍使い母里太兵衛(もりたへえ)である。
正則も太閤秀吉の直臣では、加藤清正に劣らぬ槍を使う。
太兵衛の槍は、そんな正則でさえ一目置き、かつて自藩の槍術指南役にぜひ迎えたいと思わせたほどであった。
一通りの祝賀が済むと、正則は客を酒席に通した。
太兵衛が最初に目を奪われたのは、正則の座の後にかかる槍である。槍身二尺六寸、青貝の螺鈿(らでん)をちりばめた柄を加えると七尺五寸もあろう。
正則が秀吉から賜ったという秘蔵の名槍「日本号」である。
「なるほど、お見事」太兵衛の言葉を待っていたように、正則は話し始めた。
「見事といえば、そちは稀にみる酒豪とか。本日はその腕前を見せてくれぬか?」
返事も聞かず、径一尺余の大盃になみなみと酒を注がせ、
「この一杯、一息に飲み干せば、望みのものを取らせよう。いかがじゃ?」と続けた。
太兵衛は困惑した。名代の身に不覚があってはならぬ。が、正則に引く気配はない。
「恐れながら、あの日本号を賜りますなら」酒席は驚きのあまり静まり返った。
それでも正則に動じる風はない。
「然らば」意を決した太兵衛は大盃の酒を見据えると、一気に飲み干してしまった。
困惑と狼狽が一座を走った。「天晴れじゃ、太兵衛!」沈黙を破ったのは正則である。
やにわに立ち上がると日本号をわしづかみにし、あわてて制する家臣を抑えて言った。
「余の無礼を許せ、これはお手並みに捧げる引き出物じゃ、持って行かれい。日本一に呑みとられるなら、こいつも本望じゃ、ワッハハハハ・・・・。」
このときになって太兵衛はハッと気がついた。
これは正則の精一杯の狂言なのだ。秀吉の手前をはばかり、彼は酒席の戯言にのせて名槍を呑みとらせてくれたのだ。酒の上の余興でなら、秀吉も咎め立てはするまい・・・。
福島正則から名槍「日本号」を母里太兵衛へ。「お心、ありがたく拝領」太兵衛が目の周りを熱く感じたのは、酒のせいだけではなかっただろう。
「黒田節」には名槍を呑みとる黒田武士の豪快な姿がある。
日本一の名槍を日本一の使い手に贈った正則の機知と豪気もその姿に重なるのである。

西郷隆盛のかんざし
西郷隆盛のかんざし

「おはんの長か黒髪忘れちゃおりもさんど」
安政六年(1859年)十一月、奄美大島竜郷に配流の身であった西郷隆盛は、美しい島の娘・愛加那(あいかな)と結ばれた。
当時の藩の掟では、あくまでも滞島期間のみに許された夫婦関係である。その不憫さを胸に西郷はこの妻をいとおしみ、愛加那もまた、やがて来る別離を密かに覚悟しつつ、夫の髪をときながら、櫛に残る毛髪を大切に集めたという。
やがて、長男菊次郎が生まれ、結婚二周年を機にやっと構えた新居に移ったその翌日、一隻の飛脚船が、西郷召還の命を伝えたのである。それから十年の歳月が流れた。
維新の大業を成し遂げた西郷は、菊次郎を呼び寄せ鹿児島の英語学校に通わせる一方、いつかは妻に会いに行こうと考えていた。だが、激動する時勢はそれを許さなかった。
明治二年、年の瀬も押し迫ったある日、西郷は自室に菊次郎を呼び寄せた。
いよいよ年が明ければ、岩倉勅使一行に従って上京の途につく決心をしていたのだ。
これが最後になるかもしれない。西郷にはそんな予感があった。愛加那の面影をとそめる菊次郎の顔をまじまじと凝視しながら、西郷は懐から銀製の見事なかんざしを取りだした。
「これを、おまんさあの母御に」菊次郎はよく意味が呑み込めない。
「あの南ん島で過ごした歳月だけが、おいどんにとって人間らしか毎日でごわした。母御に、おはんの長か黒髪はいつも忘れちゃおりもさん、と伝えてたもんせ」
ひとたび上京してしまえば、これから先の自分に私人たる時間は許されない。
愛加那との再会など望むべくもないという思いが彼を駆り立て、在島中はついぞ買い与えることのできなかったかんざしを贈らせたのであろう。
西郷隆盛から銀のかんざしを島の妻愛加那へ。菊次郎は長じて二代目京都市長に就き、その母は一度も島を離れることなく、明治三十五年、ひっそりと66歳の生涯を閉じた。臨終の床にあって、彼女の髪には銀のかんざしが光っていたと伝えられる。私心なきがゆえに回天の偉業を成した英雄、西郷隆盛にも、人として一介の男子としての私情はあった。
その象徴ともいうべき銀のかんざしは「歴史の寡婦」となった愛加那をどれほど慰め、励ましたことだろう。

シーボルトの医療器具

「育ちかけた医学の芽を枯らせてはならない。」
文政十一年(1829年)十月、後にいうシーボルト事件が起きた。長崎オランダ商館の医師シーボルトが禁制の日本地図を所有しているのが発覚、そのために日本追放の裁きが下されたのだ。
シーボルトには、日本女性お滝との間に2歳半になる娘イネがいた。頑迷に鎖国を守るこの国に妻子を残して去るのは、もはや生涯の別れに等しい。シーボルトは思い悩んだ末、二人のことを私塾の門人に託すことにした。
文政十二年十二月五日早朝、シーボルトを乗せたオランダ船が出島の岸壁をひっそりと離れた。
お滝たちの姿はなかった。罪人の見送りはもとより許されない。
しかし、汽船が小瀬戸にさしかかると小船が朝霧のなかから姿を現わした。
約束通り、お滝がイネを抱いている。
門人が密かに漕ぎ寄せた船に飛び乗り、シーボルトも小瀬戸に向かった。
二艘の船が浅瀬に並ぶ。シーボルトは小さな木箱をお滝の前にさし出した。
「これをおイネに」お滝はにわかに理解できない様子だった。
愛用のメスやハサミ類を収めたこの箱は、今まで誰にも触れさせようとしなかったものだ。
「大切な道具を、なぜおイネに?」シーボルトは娘を抱き寄せながら答えた。
「この子に継がせて、立派に育ててほしい。やっと育ちかけた医学の芽をこのまま枯らせてはならない」その時、船がぐらりと揺れた。潮が満ちてきたのだ。急き立てられるように、シーボルトの船は小瀬戸を離れた。この日からイネのつらい運命が始まる。
激動する歴史の中で彼女は父の志を継ぎ、門人たちから外科医の手ほどきを受け始めた。
そして婦人科の修業を終えたのは27歳の秋。安政元年(1854年)、日本最初の女医が誕生したのである。あの日から数えて30年後、イネは父との再会を果たした。
懐かしそうに見つめる父シーボルトに、イネは古びた木箱をさし出した。
P・シーボルトから医療器具を娘イネへ。「覚えておいでですか?」ふたを開けると医療用の器具がキラリと光った。「これを今も?」父の驚きに、イネは嬉しそうに答えた。「はい。これが私の父だったんですもの」
日本に近代医学の根を植えつけ大きく育てた陰に、ドイツ人の父から娘に贈られた古びた医療器具があった。
「医は仁術」という言葉があるが、この贈りものはそれを象徴しているようだ。

上杉謙信の塩
上杉謙信の塩

「雄雌を決するは弓矢なり、塩にあらず。」
「殿、好機にござる。ぜひとも禰知谷(ねちだに)の関に塩留めのご下知を」 
にじり寄る諸将を前に、上杉謙信は別の思案に耽っているようにみえた。
永禄11年(1568年)冬、越後・春日山城でのことである。
間者の伝えるところによると、隣国甲斐の覇者・武田信玄は、今川、北条の連合軍により、駿河湾、小田原方面からの魚塩を厳しく差しとめられ、領内は民も兵も大いに苦しんでいるとのこと。
上杉方の諸将は色めき立った。
南からのルートを閉ざされた以上、後は北からの唯一の道を越後領内の禰知谷の関所で押さえれば、いかに信玄とて窮せずにおられまい。
民は疲れ、兵も衰えるであろう。そうしておいて襲いかかるなら・・・。
諸将の脳裡にはこの十数年にわたる武田軍との苦しかった戦いの数々が浮かんでくる。
肉親を、縁者を、友を数え切れぬほど失ってきた。この恨みを
晴らし、雌雄を決するのはこの機をおいて他にない。
「殿、ご決断を」その声をはね返すように、謙信は凛と一声。
「甲斐に使者を!わしが信玄公と争うは弓矢においてなり、塩、糧食にあらず」
大量の塩俵を積んだ荷駄が禰知谷を越え、信玄の居城・松本深志城に入ったのは翌年正月十一日のことであった。
「なに?越後から?」報を受けた信玄は思わず立ち上がった。使者の攻城に曰く、「腹が減っては戦も叶わぬ。
ささやかながら謙信の陣中見舞いでござる。
願わくば民を安んじ兵を養いてのち、再び川中島にて相見えんことを」これを聞いて信玄は天を仰いで呻いたという。
燃えさかる野望のためには父を追い、長男を自刃させたほどのこの戦国の猛将が、なぜかこの後、謙信の背後を衝くような軍馬を一度たりとも向けようとはしなかった。
嫡子・勝頼に「こののちは謙信公を頼れ」と言い残して死んだのはそれから四年後。
上杉謙信から塩を武田信玄へ。訃報に接した謙信は、食事中の箸を落とし、「ああ、競うべきものすでになし」と涙を流したという。
川中島に対峙して激闘を重ねた信玄と謙信。
両者の間には、生涯の好敵手として、敵味方を超えた不思議な心の交流が芽生えていたのであろう。
謙信が贈った塩は、その友情の結晶だったのかもしれない。

光武帝の金印

「倭人の礼には漢の礼を尽くして応えよ。」
中国の後漢時代。建武中元元年(西暦56年)、倭奴国王の使者・大夫が初めて漢の首都・洛陽へ到った。
国を発って半年、小船で海を渡り馬に揺られて大陸を進む、長く険しい旅だった。
朝貢のため宮殿を訪れ、通された一室にはすでに他国の使者が控えていた。
「あれは南方諸国の者。持っているのは宝石の包みでしょう」
朝鮮・楽浪郡から付き添ってきた若い将校が大夫に耳打ちした。
確かに、彼らは皇帝に捧げるにふさわしい宝石の数々を持参している。
それに比べて、奴国の貢物はいかにも見劣りがした。
「貢物をここへ。謁見の日取りは追って知らせる。」 
漢の小役人の異国悟も、大夫には「どこの蛮族か」とさげすむように聞こえる。 
(謁見は許されるだろうか・・・)大夫の心は重たかった。
彼が謁見の日を待つ間、宮殿の奥では廷臣たちが、倭人に与える賜物の件で皇帝に申し出ていた。
「我ら侯公にしか与えられぬ印章を、野卑な倭人に賜る必要がございましょうか」
「それにあの貧弱な貢物」一同はうなずいた。 
「ひかえよ」 遮ったのは皇帝である。
「いかに小国とはいえ、奴国王は一国の王。はるばる使者を遣わした奴国の誠を知れ。倭人の礼には漢の礼を尽くして応えよ!」 
年老いた光武帝が久々に放った一喝で、賜物は決まった。
年が改まり、建武中元二年正月、大夫はようやく光武帝に謁見を許された。
宮殿から宿に戻った大夫は頬を紅潮させ、小箱を抱えていた。
中に印章が納めてあるという。楽浪の将校が勧めるまま、大夫はふたを開けた。紫の綬(組みひも)をした金印だ。
印面には「漢倭奴国王」と彫ってある。
「これは!」将校は驚きを込めて言った。
「皇帝が贈られる最高の栄誉だ。」 
大夫は放心したように黄金の輝きに見入っていた。
光武帝は、はるばる運んだ貢物を快く受け入れられた。
そればかりか、この金印を贈って奴国をひとつの独立国として認められたのだ。 
光武帝から金印を倭奴国王へ。「さ、吉報を一刻も早く奴国へ。」将校の言葉に大夫は力強くうなずいた。
国宝・金印は、昭和54年11月、福岡市美術館の開館を記念して黒田家から福岡市へ贈られた。
大夫が見入った輝きはおよそ二千年の時を超え、市民がともに持つ贈りものとなった。

横綱・谷風の庭石

「鞍馬の山から力の限りに運びました。」
天明・寛政期(1780年頃)、無敵の白星街道を突っ走っていた横綱・谷風梶之助は、京都相撲にやってきて、当時の画壇の最高峰・円山応挙と知遇を得た。
「絵では応挙、相撲なら谷風、いずれも日本一」と言われ、ふたりの名声は高いものであった。
ある日のこと、「先生と並んでわしのような者が日本一と称されまするは身に余る光栄。
先生、ぶしつけながらこの谷風のために絵を描いていただけませぬか。
生涯の宝物として子孫にも伝えたく存じます。」と懇望した。
応挙はこの申し出を快諾したが、「金子は無用でございますぞ。」と笑って謝礼の約束はさらりとかわしてしまった。
「はて、どうしたものか?」
谷風は考え込んだまま、応挙と別れた。
それから数日後の朝、応挙はズシーンという物凄い地響きに飛び起きた。
何事かと庭に出てみると、身の丈六尺あまりの巨体に汗を滴らせた谷風が、わが身ほどの巨岩を庭先に置いてニコニコと笑っている。
「これは、いかがなされたのじゃ。」
応挙の驚きに谷風は答えた。
「子孫代々にまで伝える家宝にと、先生の絵を所望いたしました。そのお礼には日本一の贈りものでなければ、と思案はしてみましたが、先生の絵にふさわしい物など何一つ持ってはおりませぬ。わしの取り柄といえばただひとつ、この剛力のみ。さすれば、せめてこの剛力でと思い当たりまして・・・。ここ二、三日、お庭にふさわしい石を捜して鞍馬の山を駆け巡りました。そしてやっと見つけましたのがこの岩。谷風、渾身の力をふりしぼってお庭まで運んでまいりました。さ、先生、どこに配しましょうか?」
谷風の心づくし、力づくしの謝礼は、応挙の胸にズシンとくるものがあった。
「お志、ありがたく頂戴いたします。このうえは応挙、会心の絵を描いてさしあげましょう。」
この重たい贈りものに感銘を受けた応挙は、約束の絵を一年以上の歳月を費やして見事に完成させた。その間、横綱・谷風から庭石を円山応挙へ。満足せずに反故にした作品は100枚を超えていたという。
応挙にしか描けぬ絵には、谷風にしかできぬ贈りもので報いたい―巨岩に込めた谷風のひたむきな思いは、応挙の心に末永く残ったに違いない。
だからこそ人々も「あっぱれ、日本一の贈りもの」と語り伝えていったのであろう。

黄金の杖
社員から黄金の杖をJ・ピュリッツアーへ。

「我々は、いつまでもあなたの杖です。」
1883年、ジョゼフ・ピュリッツァーは16年住み慣れたセントルイスを去る意思を固めた。
彼の新聞、「ポスト・ディスパッチ」紙の編集長が起こした事件の責任を問われ、35歳の若い社主が初めて味わう苦渋だった。社員はそろって彼の辞意に反対した。
「残念だがこれしかないんだ。私はニューヨークで出直すよ。」
ピュリッツァーはそういうものの、社員たちは最高の社主を失うのが残念でたまらなかった。
4年前、彼がこの新聞を買い取った頃、社員には活気も誇りも感じられなかった。
発行部数はわずか2000。地元のニュースは他紙から失敬するありさまを見て、若い社主は第一線に立って記事を書き、紙面に活を入れた。
活気づいた同紙は急速に読者を増やし、今ではセントルイスで最も有力な新聞にまでなっていたのだ。
幹部社員の説得にもかかわらず、ピュリッツァーの決意が変わらぬことを知ると、若い社員の間から別の意見が出た。
「ディスパッチ紙は、我々の手で守ろう。ボスにはニューヨークで活躍してもらうんだ。」
そして全社員の気持ちを伝える贈りものをすることが決まった。
セントルイスを去る日、ピュリッツァーは社員の前で別れを告げた。
そのとき、社員の一人が進み出て、用意した贈りものをおもむろにさし出した。
杖である。頭に黄金の握りがついた特製の品だ。
「私たちの変わらない感謝と尊敬のしるしです。我々はいつまでもあなたの杖です。ニューヨークでもいい仕事を。」
ピュリッツァーは一瞬、言葉を失った。
杖を握りしめる彼に、社員の熱い視線が集まる。
どの目も、負けないでくれ、もっと大きな目標を目指せと語っている。
「ありがとう。」若い社主はそれだけ言うのがやっとだった。
この年、ニューヨークに出たピュリッツァーは、赤字続きの「ワールド」紙を買い取り、有力紙がしのぎを削る新聞界に目覚ましい攻勢をかけた。
社員から黄金の杖をJ・ピュリッツアーへ。そしてセントルイスの期待に応えるように、「ワールド」はついに全米一の新聞に育って言ったのだ。
ニューヨークでの激しい戦いの中で、この黄金の杖はいつも彼を勇気づけ、励ましてくれたに違いない。
彼の遺志で設けられた「ピュリッツァー賞」は、彼に続くジャーナリストに贈られる“ピュリッツァーの杖”である。

久次郎のマンドリン
兄・久次郎からマンドリンを古賀政男へ。

「お前にしかできん曲ば作ってくれ!」
大正8年(1919年)5月。朝鮮京城で善隣商業高校へ通う政男少年のもとに、一個の小包が届いた。
贈り主は、大阪で金物屋を営んでいるすぐ上の兄・久次郎だ。
8年前、父が亡くなり、故郷の田口村(現在の福岡県大川市)から一家を挙げて朝鮮に渡ってきて以来、政男には辛いことばかりであった。
叩き上げで金物屋の主人となった長兄は、政男の中学進学の夢を「どうせ商人になるんやけん」と相手にしてくれなかった。
まして、彼の胸中に燃えさかる音楽への情熱や天分などを、理解してもらえるわけがない。
最愛の母までが「お前は誰に似たんやろうねぇ」とため息をつくのだった。
そうした中で四番目の兄・久次郎は、政男を何かにつけてかばい、特異な才能を認めてくれた。
小包を手にすると、兄への懐かしさがこみあげ、急いで包みをほどいた。
その瞬間、政男はまるで雷に打たれたような気がした。以前から欲しくてたまらなかったマンドリンではないか!夢中で抱きしめ、そっと弾いてみると甘く切ない音色が響いた。
その音を聞きながら、政男ははっきりとマンドリンに託した兄の心を感じていた。
「政男!音楽ばするごたっとやろ。するとよか。せめてお前だけは、自分の才能ば思う存分活かす道に行くがよか。このマンドリンで、お前しかできん曲ば作ってくれ!」
政男は泣いた。高価な楽器を手にすることができた喜びよりも、家のために三人の兄たちに続いて黙々と商人の道を歩いている兄が、せめて弟にだけは・・・とかけてくれた精いっぱいの思いやりと愛情が心にしみた。
この兄にもきっと進みたかった道が、思うままに築き上げたい人生があっただろうに・・・。
兄・久次郎からマンドリンを古賀政男へ。この時の古賀政男とマンドリンの出会いが、4年後には「明大マンドリン倶楽部」の創設に、そしてやがては日本人の心を唄う数々の古賀メロディの誕生へとつながっていったのである。
兄・久次郎が贈ったマンドリンには、自分の人生に対する哀しみと、弟のそれに向ける深い愛と期待が託されていたのだろう。
だからこそ、この贈りものが弟・政男の人生を拓き、音楽家への道に確かな意図筋の光明を灯すこともできたのではないだろうか。

イザベラ女王の帆船
イザベラ女王から帆船をコロンブスへ

「私は、そなたの熱意に賭けてみたい。」
1486年、コロンブスは初めてスペイン女王イザベラ一世に謁見を許された。女王に西廻りインド航路の計画を述べるためである。「地球は丸い」というだけで異端扱いされた当時、それを実証しようというのだ。
彼は、航海に必要な資金の援助を諸国の大商人や国王に求めたが、誰も相手にしてくれなかった。思い余ったコロンブスは、聡明で名高いイザベラ女王に願い出たのだ。彼は女王の前に進み出て、計画の全てを語った。
「どうぞ三隻の船を私にお与えください。お国の名誉と富のために。」
廷臣たちの嘲笑があたりを包んだ。しかし、女王は答えた。
「よろしい。そなたの計画を吟味させましょう。」
女王の言葉にコロンブスは明るい希望を持った。
しかし、地理や財政の専門家からなる「審議委員会」が結論を出すまで、コロンブスは4年間も待たねばならなかった。だが、やっと出た結論は「否決」であった。
諦めきれないコロンブスは、もう一度審議を願い出たが、1カ月もたたぬうちに再び否決された。
1492年1月、委員会は女王の前でコロンブスにその旨を通告した。(もうダメだ・・・)すべては終わったと思い、失意の数日間を過ごしたコロンブスは、行くあてもなく都を去ろうとしていた。
そこへ女王からの使いが訪れた。
「急ぎ戻ってほしい」との伝言である。おそるおそる入った謁見室には女王が待っていた。
「私は三隻の船とともに、そなたをインドに派遣することにしました。そなたの熱意にかけてみたい。必要なものはすでに命じてあります。」
あまりの驚きのために、コロンブスは息も詰まる思いだった。コロンブスはその場にひざまづき、深々と頭をたれた。
1492年8月3日早朝、コロンブスの率いる艦隊は、未知の新世界に向けて出港した。
イザベラ女王から帆船をコロンブスへ。 権勢を誇ったイザベラにとって、三隻の船を用意することはそれほど困難であったとは思いない。
むしろ、廷臣や国民の嘲笑の中でコロンブスを信頼することの方が、ずっと難しいことだったろう。
苦難の続く航海の中で、コロンブスを力づけたものは贈りものに込められた信頼の重みだったであろう。

H・フォードのT型車

「第一号車のオーナーは、あなたになって欲しい。」
 1913年秋。ヘンリー・フォードは親友エジソンを別荘に招いた。発明王エジソンはこのとき66歳。
フォードより16歳も年長だが、ふたりの親交はフォードがかつて「エジソン電気会社」の技師だった頃から続いている。
ふたりはいつものように近くの川で釣り糸を垂れていたが、今日のフォードは何か思い悩んでいる様子だ。
エジソンは話しかけた。
「最近、こんな話を聞いたけど知っているかい?」 
エジソンが聞いたのは、フォード車を中傷する噂である。
たとえば、フォード車はネジが外れやすいので、後部に磁石をつけて走るとか、安いから1年でダメになる・・・などだ。
どれもが業界の中傷や妬みから出ている誤解である。
フォードの苦笑を見て、エジソンは続けた。
「でも心配は無用さ。本当は誰もが君の車に乗りたがっている。もっと誰もが買えるように安く、たくさん作ることだ。そうすれば噂なんかひとりでに消えてしまうさ。」 
フォードはしばらく釣り糸を見ていた。
そして力強く答えた。  
「ありがとう、決心がついたよ。」
 翌1914年、産業界の正月はフォード社の値下げ宣言で明けた。
他社の自動車の半額に近い490ドルで、新しいT型車は売り出された。それはフォードが考えていた「流れ作業による自動車生産方式」により初めて可能になったのだ。
エジソンの助言は当たった。
当時、自動車は金持ちの贅沢品と見られていたが、T型車は数々の改良を加え、コストを下げて贅沢品の自動車を気軽な人々の足に変えていったのだ。
 フォード社の発表でアメリカ中が湧いていた頃、エジソン邸に1台のT型車が着いた。
運転手によると、フォード社長からエジソンへの贈りものだという。
半信半疑のエジソンは車のカギを渡されて、半年前の一件を思い出した。
フォードからの手紙も添えられている。
H・フォードからT型車を親友エジソンへ。「新しいシステムによる第一号車です。同型車はいずれ国中にあふれるでしょうが、記念すべき最初のオーナーは、ぜひあなたになってほしい!」
 エジソンはシートに座るとハンドルの感触を確かめ、おもむろに鍵をさしこんだ。
フォードの感謝の心を伝える爽やかなエンジン音が庭先に響いた。

伊藤博文の通学鞄

西洋では、ランセルと申しております。
 明治20年(1887年)、明治天皇の第三皇子(のちの大正天皇)がいよいよ学習院ご降学と決まった。
ご誕生以来病弱であった皇子がつつがなく成長され、この度のご通学となったのだ。
父君天皇はもちろん、総理大臣・伊藤博文や皇子のご養育に当たっていた人々の喜びは大きかった。
 ご通学の報を受けたとき、伊藤博文は皇子に特製のご通学祝いをしようと思い立った。
お祝いの品を依頼してのち、伊藤は出来上がりが待ち遠しくて仕方がなかった。
 その日、伊藤は青山御所へ急いだ。外はすでに夜である。 
「宮様は?」養育主任の老臣を見るなり尋ねたが、もうおやすみとのことである。
伊藤は今まで張りつめていたものが一気にぬける思いがした。 
「首相、こんなお時間に何事で?」老臣は問い返した。
「実は、宮様のこのたびのご通学に当たって、お祝いの品を持って参ったのだが・・・。」  
伊藤は包みを開けてみせた。老臣が見たのはベルトが2本ついた鞄である。 
「これは?歩兵が背負う背嚢のようですが・・・。」 
老臣は伊藤の意を察しかねたようだ。「これを宮様に?」
「いかにも。先年、欧州へ行った折見聞したもので、西洋ではランセルと申して学童が通学に使っております。」
 (また西洋か!)老臣は伊藤の西洋好みを内心苦々しく思っていた。
しかも皇子への献上物に歩兵が使う物とは心外である。
しかし、老臣の気持ちなど意に介さない様子で、伊藤は続けた。
 「宮様のご通学にこれほど最適なものはありますまい。中に学用品をいれて背負われれば、お身体も楽です。さらに咄嗟の折にも両手があいておるので安心というものです。」
 (なるほど。) 老臣はやっとランセルにこめた伊藤の真意を汲みとった。
 翌日、ランセルは皇子の手元に届けられた。
数多く寄せられた贈りもののうちでも、ランセルはことのほか皇子を喜ばせたという。
伊藤博文から通学鞄を皇子へその後、ランセルは学習院で正式に採用されるにおよび、学童の通学鞄として全国に普及していった。
現在の「ランドセル」は、ランセルが訛ったものである。
 相手の身になって選ばれた贈りものこそ、最高の贈りものといえる。
伊藤のランセルは、物珍しさよりも通学の身を案じるまごころの所産ではなかっただろうか。

坂本龍馬の月琴
坂本龍馬から月琴をおりょうへ

「わが身と思うて、膝に抱かれたく…」
幕末維新の風雲児坂本龍馬の恋人は、数人伝えられている。
その中からひとり、妻の座に選ばれたのは京の女性おりょうである。元治元年(1864年)、龍馬は始めて長崎を訪れた。
異国の香りがするこの町をすっかり気に入り、連日のように歩き回るうち、龍馬は聞き慣れない音曲を耳にした。
異国の楽器らしい。
舶来物を扱う唐物屋に飛び込んで尋ねると、やはり見慣れぬ楽器を取りだしてきた。月琴という清国伝来の弦楽器である。
弦をはじくと、琵琶に似ているがやや高く、甘い音色がする。
若い女の京ことばを聞くようだ。「面白そうじゃな。」
龍馬はさっそくこの異国の楽器を買い求めた。
京を発って半年後、龍馬は長旅を終え、おりょうのもとへ帰ってきた。
おりょうは胸にたまった寂しさを一気に語りつくそうとした。
しかし、「またすぐ出かける。」という龍馬のひと言に遮られてしまった。
いつもの通りだ。龍馬は急に思い出したように言った。
「そうじゃ、長崎で面白いもんをみつけた!」
「おや、何どすやろ。」
腹立たしい気持ちをぶつけるようにおりょうはおどけてみせたが、龍馬は意に介さない。
「勝手口に置いてあるきに。」
おりょうは小走りに勝手口へ立った。確かに、長さ二尺もある包みが板の間に立てかけてある。
開けると見慣れぬ楽器が出てきた。龍馬が長崎で買い求めた月琴である。そして、走り書きの手紙が添えてあった。「わが身と思うて、膝に抱かれたく・・・。」
飛び跳ねるような文字から龍馬の笑顔が見えてくるようだ。
(あの人は、私の心がわかっている・・・)
おりょうは、不意に切なさがこみ上げてきて急いで部屋に戻ると、龍馬の姿はもうなかった。
月琴は、おりょうが龍馬からもらった初めての贈りものだった。
そしてこの贈りものにおりょうは二人を結ぶ絆を見る思いがした。坂本龍馬の月琴
のちに、龍馬はおりょうに語っている。「仕事が済めば山中で気楽に暮らすきに、それまでに稽古しちょれ。」
しかし、龍馬はおりょうの奏でる月琴を聞くこともなく、慶応三年(1867年)11月15日、暗殺者の凶刃に倒れた。
不運の時代を生きた龍馬とおりょう、離ればなれに暮らすことの多かったふたりにとって、この贈りものが一本の線となり、心と心をつないでいたのだろう。

自由の女神
自由の女神

NY市民よ、女神は我々の手で迎えよう!
ニューヨークのハドソン川をさかのぼる船は、まず自由の女神に迎えられる。
右手にたいまつ、左手に独立宣言書、足首には自由を目指して断ち切られた鎖を見せる女神像は、合衆国独立承認100年を祝って、フランス国民から米国民へ贈られた。この計画が生まれたのは1866年、ベルサイユ宮殿の晩餐会に集まった政治家、芸術家たちの間からである。米国独立戦争で勝利を勝ち取った米国とフランスの友情と栄光を、永く両国民に伝えようというのである。しかしこの計画に疑問を投げかけた客も少なくなかった。
それから9年後、この計画はフランスの大衆の手で甦った。基金募集のため「フランス・アメリカ・ユニオン」が組織され、人々は募金の呼び掛けに応えた。像の内部構造の設計は、のちにエッフェル塔を設計したA・エッフェルがあたり、デザインは人気彫刻家F・バルトルディが申し出た。1884年、女神像は完成した。同じ年、パリで盛大な贈呈式も行なわれた。ところが、合衆国では困った事態が起きていた。像を据える台座が、資金不足のために未完成なのだ。大西洋を渡る日を待つ女神に救いの手をさしのべたのは、ニューヨークの市民である。
大衆紙「ニューヨーク・ワールド」は読者に呼びかけた。「女神の製作には、フランスの大衆が募金に参加してくれた。我々も、この誠意に応えようではないか。億万長者の寄付を待つのはやめよう。女神は我々の手で迎えよう!」12万人もの人々がこの訴えに賛同し、5セントから多くても250ドルを基金に寄せてきた。目標の10万ドルはわずか半年で集まり、台座は完成した。全高46メートルの女神像は、214個のケースに分解され、船で大西洋を渡った。除幕式の日、ハドソン川河口の両岸は群衆で埋まった。三食の幕が除かれると、待ち構えていた市民の間から大歓声が湧きあがった。1886年10月28日のことである。
自由の女神 フランス国民と米国民の信頼と相互理解にこの贈り物が果たした役割は大きい。国から国への贈りもの、それはときには政治、外交以上に心と心を近づけてくれるものなのだろう。

チャップリンの腕輪

さっきの店でちょっと失敬したんだ。
  1944年のこと。ビバリーヒルズの宝石店にチャップリン夫妻が入ってきた。
  54歳のチャップリンと18歳の新妻ウーナ、まるで親子のようなふたりである。この日はウーナ夫人の化粧箱を修理するため、近くの店に出かけたのだ。待っている間、ふたりはショーケースの品々を物色していた。中でもウーナがため息を漏らしたのは、ダイヤモンドとルビーをちりばめたみごとな腕輪だった。
  チャップリンも気に入ってしきりに勧めたが、ウーナは自分には高価すぎるといって断ってしまった。彼女はチャップリン夫人になったその日から、つつましい妻に専念することを固く決心していた。チャップリンと36歳も離れた4番目の妻ウーナ、その結婚は当時、ジャーナリストたちの注目の的であった。財産目当ての結婚などという陰口も聞かれた。そのためか、ひそやかな結婚式から半年後の今も 彼女は結婚指輪さえ受け取ろうとしないのだ。
 店を出て車に戻るなり、チャップリンは硬い声で言った。
「急いでくれ、フルスピードだ!」車が走り出すと、彼はポケットからそっと腕輪を取りだした。
 彼女が先ほどため息を漏らした例の腕輪である。
「君が他のを見ているすきに、さっきの店でちょっと失敬したんだ。」
 ウーナは真っ青になった。
「いけないわ!ひどいことを・・・」彼女は車を裏通りに入れ、急停車させた。
「どうしたらいいか、考えてみましょう」「しかし、いまさら返すなんてとても・・・。僕を刑務所に入れたいのかね?」そう言ったものの、ウーナの困りきった表情を見て、もうこれ以上嘘を続けるわけにはいかなかった。
「冗談だよ!」ふき出しながら、彼はウーナに白状した。実は、彼女が他の品を見ている間に、店の奥でそっと買っておいたのだ。
歴史に残る贈り物「奥様、腕輪をどうぞ。これでもまだご不満ですか?」少年のようにいたずらっぽい笑顔から、ウーナはチャップリンのまごころを見てとった。
 彼女は、いたずらっ子をたしなめる母親のようにあったかい口づけを彼に贈った。
 喜劇王チャップリンが、最愛の妻にプレゼントしたこの腕輪は、迫真の演技とユーモアのリボンをかけた愛の贈りものであった。

ジョン万次郎の扇と絹織物

船長、あなたの息子から29年目のお礼です。
 1870年(明治3年)夏、開成学校教授 中浜万次郎は政府からヨーロッパ特使を命じられた。
 旅行が米国 経由と決まると、万次郎の心は躍った。恩人ホイットフィールド船長に再会できるのだ。
 29年前だった。14歳の漁師 万次郎は土佐沖で嵐に遭い、無人島(鳥島)に漂着した。雨水などで命は つなげたものの、このまま無人島で果てるのかと絶望に打ちひしがれていたとき、ホイットフィールド船長の 捕鯨船に救出されたのだ。
 そればかりか、船長は万次郎に船乗りの才を見つけ、彼を米国に連れ帰って 学校に通わせた。英語から始めて航海術まで、西洋の知識を修めた万次郎は無事日本に帰り、今では 日本を代表する西洋への案内役である。
 命の恩人、人生の恩人になんとしても感謝の気持ちを伝えたい・・・。
 万次郎は船長との再会に胸を躍らせ ながら真夏の日本を発った。
 船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンに着いたのは10月の末だった。
 紅葉を終えた並木道も 船長宅の庭も昔のままだ。万次郎の心も少年時代に帰っていた。はやる心をおさえて、ドアをノックする。  
「船長、ジョン・マンです。あなたの息子です!」 ドアが開いた。白髭の老人が一瞬立ちすくみ、呻くような歓声をあげた。船長も万次郎も涙がとめどもなく流れ、しばらく抱きあったままだった。夫人に居間へ案内され、万次郎はやっと言葉を継いだ。
「船長、これを。あなたの息子から、29年目の御礼です。」
 はるばる日本から持参した贈りもの、扇と絹織物である。船長はもちろん、夫人も娘たちも初めて見るあでやかな日本の 美に感嘆の声をあげた。船長は、軍服に身を包んだ43歳の「息子」を改めて見つめ、彼の手を握りしめた。65歳とは思えない船長の力強い握手だった。
「今の私があるのはフェアヘブンで教育を受け、世界に目を開くことができたからです。私を育ててくださった船長の おかげです。」
 その夜、夫人の心づくしの晩餐のあとも、万次郎は熱っぽく語り続けた。
船長と万次郎、二人の間には時間も、国境も存在しない。はるばる太平洋を越えて運ばれたまごころの贈りものが、 この夜の再会をさらに思い出深いものにしてくれたことだろう。

白太夫の梅一鉢

この梅が、公を募ってまいりました。
    昌泰4年(901年)の正月、突如として菅原道真追放の宣命が下された。
   道真の出世を妬む藤原方の謀略である。官職の最高位・右大臣から筑紫国太宰員外帥へ。道真はこのとき57歳、終身の流刑に等しい。老家臣渡会春彦白太夫は、急ぎ道真のもとへ参じた。道真は、秘蔵の梅と松を鉢に植え替え、これを自分の形見と思うように、と白太夫に托した。
   赴任に当たっては、わずかな身の回りの物のほかは何も持ち出すことは許されないのだ。白太夫の腕に 鉢は重たかった。住みなれた都を去る日、道真を見送ったのは家族とわずかな家臣だけである。
   東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
 生きて再び見ることもない京への惜別の一首を残し、道真は筑紫国へ向かった。一年後、都の人々の間から道真の噂も途絶えがちになろうとしていた頃、道真が托した松が一夜のうちに枯れた。
   見れば、梅も枯れかかっている。公の身に凶事でも・・・と白太夫の心は騒いだ。流人道真に会うことは固く禁じられている。藤原方に知れると自らも罪に問われるのだ。しかし―枯れかかる梅が彼を急き立てた。  
   白太夫は梅の鉢を携え、筑紫へ、道真のもとへ急いだ。博多津へ着いたのは三月。 道真が謹慎する太宰府榎寺には、監視の目がまだ強い。白太夫は農夫を装って境内に入り、庭先から声をかけた。「申し上げます。この梅が公を慕ってまいりました。」覚えのある声、そして都の梅・・・。道真が再び手にした一鉢は、ことさら重たかった。それは都への募る思いと、 白太夫のまごころの重さだったのだろう。  
   当時、この事実が知れると罪に問われる白太夫の身を案じて、道真は都の梅が一夜のうちに飛んできた、と周りの者に 告げたという。名高い「飛梅」の由来である。  
   翌年春、梅は見事に花開いて都の香りを漂わせ、道真を喜ばせた。しかし、これが道真の見た最後の梅となった。この年、2月25日、道真は病に倒れた。享年59歳であった。  
主従の関係を超えたまごころの贈りもの―一鉢の梅が不遇の道真をどれほど感激させたかは想像に難くない。

グレン・ミラーの真珠の首飾り

ヘレン、ありがとう。今度こそホンモノだよ。
1926年夏。
コロラド州デンバーへ向かう車の中、22歳のグレン・ミラーはヘレンのことで頭がいっぱいだった。2年ぶりの再会である。さっき電話で聞いた声は学生時代と少しも変わっていない。
いい知らせを早く伝えたかった。西海岸で一番人気のあるベン・ポラック楽団に今日、採用されたのだ。今こそ、心のうちを打ち明けるチャンスだ。上着のポケットには初めての贈りもの―80ドルで買ったイミテーションの真珠の首飾り―が入っている。今の彼には、それでも贅沢な贈りものなのだ。
ヘレンに家の前に立ったのはもう真夜中だった。待ちくたびれたヘレンはすっかり機嫌を悪くしていたが、彼の精一杯の気持ちがヘレンの笑顔を取り戻してくれた。デンバーの月明かりにヘレンの笑顔と80ドルの首飾りが映える。そのとき彼は心に誓った。きっと成功して、本物の真珠を彼女に贈るんだ・・・と。
そして5年後。ふたりはニューヨークでささやかな結婚式をあげた。ミラーは楽団を辞めて、念願の新しいサウンドづくりに取りかかった。苦しい生活の中で彼の夢を支えてくれたのは、ヘレンの明るい笑顔だった。
1939年春。デンバーの月明かりをイメージに描いた「ムーンライト・セレナーデ」が初めてヒット。続いて発表された「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」なども大ヒットを重ねた。
ふたりの10年目の結婚記念日は、まるでグレン・ミラー楽団の成功を祝うパーティーのようだった。ミラーはヘレンのためにひそかに贈りものを用意した。
「ヘレン、ありがとう。今度こそ本物だよ。」ヘレンの胸に、真珠の首飾りが燦然と輝いた。言葉もなく見つめ合うふたりに、会場の中から拍手が沸き起こった。

グレン・ミラーの真珠の首飾り

やがて、ミラーの指揮でこの秋発表する新曲が演奏された。曲は「真珠の首飾り」と名付けられた。ミラー・サウンド最高のヒットナンバーである。デンバーの夜から十五年、この夜のプレゼントはグレン・ミラーが最愛の妻にささげた、生涯の贈りものであった。

マルコ・ポーロの聖油

陛下、これがお約束のものでございます。
 1271年夏、ベニスの港からマルコ・ポーロ一行の船が出港した。一行の行き先は、モンゴル帝国皇帝フビライ・ハーンのもとだ。船にはマルコの父、ニコロと叔父のマッフェオも乗り込んでいた。ニコロとマッフェオの兄弟にとって、今回は二度目の東方旅行である。兄弟は十数年前、ふとしたことからモンゴル帝国の首都に到り、皇帝からキリストの聖油を持ってくるよう命を受けて帰国していた。エルサレムのキリストの墓に灯るランプの話を、皇帝は伝え聞いていた。毎年、キリストの受難日になると灯火がひとりでに消えてしまい、復活の時刻になるとまた燃え出すという奇跡の油である。海路2500キロ、エルサレムに着いた一行はキリストの墓に詣でて、聖油を一壺もらいうけた。
 いよいよ陸路、東方への旅が始まった。それは長く苦しいものとなった。ペルシャで一行は盗賊に襲われ、隊商の人数のほとんどを失った。パミール高原、ゴビ砂漠、そして敦煌へ。わずか一壺の聖油を運ぶため、まるで何かにとりつかれたように彼らは12000キロを歩き続けた。酷寒と炎暑の中、三年半を費やす旅であった。ベニスを発つとき17歳だったマルコは、目的地についたとき20歳の青年に成長していた。
 元の首都シャンドゥに到着した一行は、早速宮殿に皇帝を訪ね、聖油を献上した。
「陛下、お約束のものでございます。数十人の人命と三年余の歳月を費やしました。わが法王グレゴリウス十世より陛下へ、大いなる親交の証と思し召しくださいませ。」
聖油を手にした皇帝はよほど嬉しかったのだろう、マルコを近臣のひとりに連ねたという。
当時、フビライ・ハーンは、甥ハイドゥの反乱対策に苦慮していた。エルサレムから運ばれた聖油は皇帝にとって何よりも心強い西洋からの味方に見えたことだろう。
 その後、彼らが開いた道を通して西と東の自由な交易がはじまった。その先鞭をつけたのは、西洋からの小さな贈りもの、一壺の聖油だったのだ。

ベーブ・ルースのサインボール

 1926年のこと。ジョニー・シルベスターという11歳の少年が落馬して、ひどい怪我をした。一命はとりとめたものの、ジョニーは寝たきりになっている。医者も原因がつかめない―たぶん精神的な理由がある―という。
 ジョニーの父親はベーブ・ルースのことを思い出した。ジョニーはルースの大ファンだ。彼の力で、息子は治るかもしれない・・・。父親はルースに連絡を取った。ルースは翌日からワールドシリーズをひかえていたが、 突然の申し出にいとも気軽に応じた。
 「よし、じゃ今日の午後、ジョニーのところへ行ってやろう。」
ルースがサインボールを持って病室へ入っていくと、ジョニーは目を見開いて驚いた。
「ジョニー、このボールはラッキーなんだぜ。早く野球ができるように元気になるんだな。よし、ワールドシリーズでは君のために特大のホームランを打ってやる。約束だ。」
 ニューヨークに帰ったルースは、この年のワールドシリーズ(対カージナルス戦)で、4本のホームランをたたき出した。ルースに会ったあと、ジョニーはめきめきと回復していったという。
 ルースが少年を見舞った話は美談として新聞で大々的に報じられた。これを「売名行為」だの「やらせ」 だのと陰口をたたく者も少なくなかったらしい。しかし、ルースが贈ったボールは、間違いなく素直な少年の心を力づけ、生きる勇気を 与えた素晴らしい贈りものであった。