自由の女神

自由の女神

NY市民よ、女神は我々の手で迎えよう!
ニューヨークのハドソン川をさかのぼる船は、まず自由の女神に迎えられる。
右手にたいまつ、左手に独立宣言書、足首には自由を目指して断ち切られた鎖を見せる女神像は、合衆国独立承認100年を祝って、フランス国民から米国民へ贈られた。この計画が生まれたのは1866年、ベルサイユ宮殿の晩餐会に集まった政治家、芸術家たちの間からである。米国独立戦争で勝利を勝ち取った米国とフランスの友情と栄光を、永く両国民に伝えようというのである。しかしこの計画に疑問を投げかけた客も少なくなかった。
それから9年後、この計画はフランスの大衆の手で甦った。基金募集のため「フランス・アメリカ・ユニオン」が組織され、人々は募金の呼び掛けに応えた。像の内部構造の設計は、のちにエッフェル塔を設計したA・エッフェルがあたり、デザインは人気彫刻家F・バルトルディが申し出た。1884年、女神像は完成した。同じ年、パリで盛大な贈呈式も行なわれた。ところが、合衆国では困った事態が起きていた。像を据える台座が、資金不足のために未完成なのだ。大西洋を渡る日を待つ女神に救いの手をさしのべたのは、ニューヨークの市民である。
大衆紙「ニューヨーク・ワールド」は読者に呼びかけた。「女神の製作には、フランスの大衆が募金に参加してくれた。我々も、この誠意に応えようではないか。億万長者の寄付を待つのはやめよう。女神は我々の手で迎えよう!」12万人もの人々がこの訴えに賛同し、5セントから多くても250ドルを基金に寄せてきた。目標の10万ドルはわずか半年で集まり、台座は完成した。全高46メートルの女神像は、214個のケースに分解され、船で大西洋を渡った。除幕式の日、ハドソン川河口の両岸は群衆で埋まった。三食の幕が除かれると、待ち構えていた市民の間から大歓声が湧きあがった。1886年10月28日のことである。
自由の女神 フランス国民と米国民の信頼と相互理解にこの贈り物が果たした役割は大きい。国から国への贈りもの、それはときには政治、外交以上に心と心を近づけてくれるものなのだろう。