白太夫の梅一鉢

この梅が、公を募ってまいりました。
    昌泰4年(901年)の正月、突如として菅原道真追放の宣命が下された。
   道真の出世を妬む藤原方の謀略である。官職の最高位・右大臣から筑紫国太宰員外帥へ。道真はこのとき57歳、終身の流刑に等しい。老家臣渡会春彦白太夫は、急ぎ道真のもとへ参じた。道真は、秘蔵の梅と松を鉢に植え替え、これを自分の形見と思うように、と白太夫に托した。
   赴任に当たっては、わずかな身の回りの物のほかは何も持ち出すことは許されないのだ。白太夫の腕に 鉢は重たかった。住みなれた都を去る日、道真を見送ったのは家族とわずかな家臣だけである。
   東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
 生きて再び見ることもない京への惜別の一首を残し、道真は筑紫国へ向かった。一年後、都の人々の間から道真の噂も途絶えがちになろうとしていた頃、道真が托した松が一夜のうちに枯れた。
   見れば、梅も枯れかかっている。公の身に凶事でも・・・と白太夫の心は騒いだ。流人道真に会うことは固く禁じられている。藤原方に知れると自らも罪に問われるのだ。しかし―枯れかかる梅が彼を急き立てた。  
   白太夫は梅の鉢を携え、筑紫へ、道真のもとへ急いだ。博多津へ着いたのは三月。 道真が謹慎する太宰府榎寺には、監視の目がまだ強い。白太夫は農夫を装って境内に入り、庭先から声をかけた。「申し上げます。この梅が公を慕ってまいりました。」覚えのある声、そして都の梅・・・。道真が再び手にした一鉢は、ことさら重たかった。それは都への募る思いと、 白太夫のまごころの重さだったのだろう。  
   当時、この事実が知れると罪に問われる白太夫の身を案じて、道真は都の梅が一夜のうちに飛んできた、と周りの者に 告げたという。名高い「飛梅」の由来である。  
   翌年春、梅は見事に花開いて都の香りを漂わせ、道真を喜ばせた。しかし、これが道真の見た最後の梅となった。この年、2月25日、道真は病に倒れた。享年59歳であった。  
主従の関係を超えたまごころの贈りもの―一鉢の梅が不遇の道真をどれほど感激させたかは想像に難くない。