マルコ・ポーロの聖油

陛下、これがお約束のものでございます。
 1271年夏、ベニスの港からマルコ・ポーロ一行の船が出港した。一行の行き先は、モンゴル帝国皇帝フビライ・ハーンのもとだ。船にはマルコの父、ニコロと叔父のマッフェオも乗り込んでいた。ニコロとマッフェオの兄弟にとって、今回は二度目の東方旅行である。兄弟は十数年前、ふとしたことからモンゴル帝国の首都に到り、皇帝からキリストの聖油を持ってくるよう命を受けて帰国していた。エルサレムのキリストの墓に灯るランプの話を、皇帝は伝え聞いていた。毎年、キリストの受難日になると灯火がひとりでに消えてしまい、復活の時刻になるとまた燃え出すという奇跡の油である。海路2500キロ、エルサレムに着いた一行はキリストの墓に詣でて、聖油を一壺もらいうけた。
 いよいよ陸路、東方への旅が始まった。それは長く苦しいものとなった。ペルシャで一行は盗賊に襲われ、隊商の人数のほとんどを失った。パミール高原、ゴビ砂漠、そして敦煌へ。わずか一壺の聖油を運ぶため、まるで何かにとりつかれたように彼らは12000キロを歩き続けた。酷寒と炎暑の中、三年半を費やす旅であった。ベニスを発つとき17歳だったマルコは、目的地についたとき20歳の青年に成長していた。
 元の首都シャンドゥに到着した一行は、早速宮殿に皇帝を訪ね、聖油を献上した。
「陛下、お約束のものでございます。数十人の人命と三年余の歳月を費やしました。わが法王グレゴリウス十世より陛下へ、大いなる親交の証と思し召しくださいませ。」
聖油を手にした皇帝はよほど嬉しかったのだろう、マルコを近臣のひとりに連ねたという。
当時、フビライ・ハーンは、甥ハイドゥの反乱対策に苦慮していた。エルサレムから運ばれた聖油は皇帝にとって何よりも心強い西洋からの味方に見えたことだろう。
 その後、彼らが開いた道を通して西と東の自由な交易がはじまった。その先鞭をつけたのは、西洋からの小さな贈りもの、一壺の聖油だったのだ。