横綱・谷風の庭石

「鞍馬の山から力の限りに運びました。」
天明・寛政期(1780年頃)、無敵の白星街道を突っ走っていた横綱・谷風梶之助は、京都相撲にやってきて、当時の画壇の最高峰・円山応挙と知遇を得た。
「絵では応挙、相撲なら谷風、いずれも日本一」と言われ、ふたりの名声は高いものであった。
ある日のこと、「先生と並んでわしのような者が日本一と称されまするは身に余る光栄。
先生、ぶしつけながらこの谷風のために絵を描いていただけませぬか。
生涯の宝物として子孫にも伝えたく存じます。」と懇望した。
応挙はこの申し出を快諾したが、「金子は無用でございますぞ。」と笑って謝礼の約束はさらりとかわしてしまった。
「はて、どうしたものか?」
谷風は考え込んだまま、応挙と別れた。
それから数日後の朝、応挙はズシーンという物凄い地響きに飛び起きた。
何事かと庭に出てみると、身の丈六尺あまりの巨体に汗を滴らせた谷風が、わが身ほどの巨岩を庭先に置いてニコニコと笑っている。
「これは、いかがなされたのじゃ。」
応挙の驚きに谷風は答えた。
「子孫代々にまで伝える家宝にと、先生の絵を所望いたしました。そのお礼には日本一の贈りものでなければ、と思案はしてみましたが、先生の絵にふさわしい物など何一つ持ってはおりませぬ。わしの取り柄といえばただひとつ、この剛力のみ。さすれば、せめてこの剛力でと思い当たりまして・・・。ここ二、三日、お庭にふさわしい石を捜して鞍馬の山を駆け巡りました。そしてやっと見つけましたのがこの岩。谷風、渾身の力をふりしぼってお庭まで運んでまいりました。さ、先生、どこに配しましょうか?」
谷風の心づくし、力づくしの謝礼は、応挙の胸にズシンとくるものがあった。
「お志、ありがたく頂戴いたします。このうえは応挙、会心の絵を描いてさしあげましょう。」
この重たい贈りものに感銘を受けた応挙は、約束の絵を一年以上の歳月を費やして見事に完成させた。その間、横綱・谷風から庭石を円山応挙へ。満足せずに反故にした作品は100枚を超えていたという。
応挙にしか描けぬ絵には、谷風にしかできぬ贈りもので報いたい―巨岩に込めた谷風のひたむきな思いは、応挙の心に末永く残ったに違いない。
だからこそ人々も「あっぱれ、日本一の贈りもの」と語り伝えていったのであろう。