上杉謙信の塩

上杉謙信の塩

「雄雌を決するは弓矢なり、塩にあらず。」
「殿、好機にござる。ぜひとも禰知谷(ねちだに)の関に塩留めのご下知を」 
にじり寄る諸将を前に、上杉謙信は別の思案に耽っているようにみえた。
永禄11年(1568年)冬、越後・春日山城でのことである。
間者の伝えるところによると、隣国甲斐の覇者・武田信玄は、今川、北条の連合軍により、駿河湾、小田原方面からの魚塩を厳しく差しとめられ、領内は民も兵も大いに苦しんでいるとのこと。
上杉方の諸将は色めき立った。
南からのルートを閉ざされた以上、後は北からの唯一の道を越後領内の禰知谷の関所で押さえれば、いかに信玄とて窮せずにおられまい。
民は疲れ、兵も衰えるであろう。そうしておいて襲いかかるなら・・・。
諸将の脳裡にはこの十数年にわたる武田軍との苦しかった戦いの数々が浮かんでくる。
肉親を、縁者を、友を数え切れぬほど失ってきた。この恨みを
晴らし、雌雄を決するのはこの機をおいて他にない。
「殿、ご決断を」その声をはね返すように、謙信は凛と一声。
「甲斐に使者を!わしが信玄公と争うは弓矢においてなり、塩、糧食にあらず」
大量の塩俵を積んだ荷駄が禰知谷を越え、信玄の居城・松本深志城に入ったのは翌年正月十一日のことであった。
「なに?越後から?」報を受けた信玄は思わず立ち上がった。使者の攻城に曰く、「腹が減っては戦も叶わぬ。
ささやかながら謙信の陣中見舞いでござる。
願わくば民を安んじ兵を養いてのち、再び川中島にて相見えんことを」これを聞いて信玄は天を仰いで呻いたという。
燃えさかる野望のためには父を追い、長男を自刃させたほどのこの戦国の猛将が、なぜかこの後、謙信の背後を衝くような軍馬を一度たりとも向けようとはしなかった。
嫡子・勝頼に「こののちは謙信公を頼れ」と言い残して死んだのはそれから四年後。
上杉謙信から塩を武田信玄へ。訃報に接した謙信は、食事中の箸を落とし、「ああ、競うべきものすでになし」と涙を流したという。
川中島に対峙して激闘を重ねた信玄と謙信。
両者の間には、生涯の好敵手として、敵味方を超えた不思議な心の交流が芽生えていたのであろう。
謙信が贈った塩は、その友情の結晶だったのかもしれない。