歴史に残る贈り物

ジョン万次郎の扇と絹織物

船長、あなたの息子から29年目のお礼です。
 1870年(明治3年)夏、開成学校教授 中浜万次郎は政府からヨーロッパ特使を命じられた。
 旅行が米国 経由と決まると、万次郎の心は躍った。恩人ホイットフィールド船長に再会できるのだ。
 29年前だった。14歳の漁師 万次郎は土佐沖で嵐に遭い、無人島(鳥島)に漂着した。雨水などで命は つなげたものの、このまま無人島で果てるのかと絶望に打ちひしがれていたとき、ホイットフィールド船長の 捕鯨船に救出されたのだ。
 そればかりか、船長は万次郎に船乗りの才を見つけ、彼を米国に連れ帰って 学校に通わせた。英語から始めて航海術まで、西洋の知識を修めた万次郎は無事日本に帰り、今では 日本を代表する西洋への案内役である。
 命の恩人、人生の恩人になんとしても感謝の気持ちを伝えたい・・・。
 万次郎は船長との再会に胸を躍らせ ながら真夏の日本を発った。
 船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンに着いたのは10月の末だった。
 紅葉を終えた並木道も 船長宅の庭も昔のままだ。万次郎の心も少年時代に帰っていた。はやる心をおさえて、ドアをノックする。  
「船長、ジョン・マンです。あなたの息子です!」 ドアが開いた。白髭の老人が一瞬立ちすくみ、呻くような歓声をあげた。船長も万次郎も涙がとめどもなく流れ、しばらく抱きあったままだった。夫人に居間へ案内され、万次郎はやっと言葉を継いだ。
「船長、これを。あなたの息子から、29年目の御礼です。」
 はるばる日本から持参した贈りもの、扇と絹織物である。船長はもちろん、夫人も娘たちも初めて見るあでやかな日本の 美に感嘆の声をあげた。船長は、軍服に身を包んだ43歳の「息子」を改めて見つめ、彼の手を握りしめた。65歳とは思えない船長の力強い握手だった。
「今の私があるのはフェアヘブンで教育を受け、世界に目を開くことができたからです。私を育ててくださった船長の おかげです。」
 その夜、夫人の心づくしの晩餐のあとも、万次郎は熱っぽく語り続けた。
船長と万次郎、二人の間には時間も、国境も存在しない。はるばる太平洋を越えて運ばれたまごころの贈りものが、 この夜の再会をさらに思い出深いものにしてくれたことだろう。

白太夫の梅一鉢

この梅が、公を募ってまいりました。
    昌泰4年(901年)の正月、突如として菅原道真追放の宣命が下された。
   道真の出世を妬む藤原方の謀略である。官職の最高位・右大臣から筑紫国太宰員外帥へ。道真はこのとき57歳、終身の流刑に等しい。老家臣渡会春彦白太夫は、急ぎ道真のもとへ参じた。道真は、秘蔵の梅と松を鉢に植え替え、これを自分の形見と思うように、と白太夫に托した。
   赴任に当たっては、わずかな身の回りの物のほかは何も持ち出すことは許されないのだ。白太夫の腕に 鉢は重たかった。住みなれた都を去る日、道真を見送ったのは家族とわずかな家臣だけである。
   東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
 生きて再び見ることもない京への惜別の一首を残し、道真は筑紫国へ向かった。一年後、都の人々の間から道真の噂も途絶えがちになろうとしていた頃、道真が托した松が一夜のうちに枯れた。
   見れば、梅も枯れかかっている。公の身に凶事でも・・・と白太夫の心は騒いだ。流人道真に会うことは固く禁じられている。藤原方に知れると自らも罪に問われるのだ。しかし―枯れかかる梅が彼を急き立てた。  
   白太夫は梅の鉢を携え、筑紫へ、道真のもとへ急いだ。博多津へ着いたのは三月。 道真が謹慎する太宰府榎寺には、監視の目がまだ強い。白太夫は農夫を装って境内に入り、庭先から声をかけた。「申し上げます。この梅が公を慕ってまいりました。」覚えのある声、そして都の梅・・・。道真が再び手にした一鉢は、ことさら重たかった。それは都への募る思いと、 白太夫のまごころの重さだったのだろう。  
   当時、この事実が知れると罪に問われる白太夫の身を案じて、道真は都の梅が一夜のうちに飛んできた、と周りの者に 告げたという。名高い「飛梅」の由来である。  
   翌年春、梅は見事に花開いて都の香りを漂わせ、道真を喜ばせた。しかし、これが道真の見た最後の梅となった。この年、2月25日、道真は病に倒れた。享年59歳であった。  
主従の関係を超えたまごころの贈りもの―一鉢の梅が不遇の道真をどれほど感激させたかは想像に難くない。

グレン・ミラーの真珠の首飾り

ヘレン、ありがとう。今度こそホンモノだよ。
1926年夏。
コロラド州デンバーへ向かう車の中、22歳のグレン・ミラーはヘレンのことで頭がいっぱいだった。2年ぶりの再会である。さっき電話で聞いた声は学生時代と少しも変わっていない。
いい知らせを早く伝えたかった。西海岸で一番人気のあるベン・ポラック楽団に今日、採用されたのだ。今こそ、心のうちを打ち明けるチャンスだ。上着のポケットには初めての贈りもの―80ドルで買ったイミテーションの真珠の首飾り―が入っている。今の彼には、それでも贅沢な贈りものなのだ。
ヘレンに家の前に立ったのはもう真夜中だった。待ちくたびれたヘレンはすっかり機嫌を悪くしていたが、彼の精一杯の気持ちがヘレンの笑顔を取り戻してくれた。デンバーの月明かりにヘレンの笑顔と80ドルの首飾りが映える。そのとき彼は心に誓った。きっと成功して、本物の真珠を彼女に贈るんだ・・・と。
そして5年後。ふたりはニューヨークでささやかな結婚式をあげた。ミラーは楽団を辞めて、念願の新しいサウンドづくりに取りかかった。苦しい生活の中で彼の夢を支えてくれたのは、ヘレンの明るい笑顔だった。
1939年春。デンバーの月明かりをイメージに描いた「ムーンライト・セレナーデ」が初めてヒット。続いて発表された「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」なども大ヒットを重ねた。
ふたりの10年目の結婚記念日は、まるでグレン・ミラー楽団の成功を祝うパーティーのようだった。ミラーはヘレンのためにひそかに贈りものを用意した。
「ヘレン、ありがとう。今度こそ本物だよ。」ヘレンの胸に、真珠の首飾りが燦然と輝いた。言葉もなく見つめ合うふたりに、会場の中から拍手が沸き起こった。

グレン・ミラーの真珠の首飾り

やがて、ミラーの指揮でこの秋発表する新曲が演奏された。曲は「真珠の首飾り」と名付けられた。ミラー・サウンド最高のヒットナンバーである。デンバーの夜から十五年、この夜のプレゼントはグレン・ミラーが最愛の妻にささげた、生涯の贈りものであった。

マルコ・ポーロの聖油

陛下、これがお約束のものでございます。
 1271年夏、ベニスの港からマルコ・ポーロ一行の船が出港した。一行の行き先は、モンゴル帝国皇帝フビライ・ハーンのもとだ。船にはマルコの父、ニコロと叔父のマッフェオも乗り込んでいた。ニコロとマッフェオの兄弟にとって、今回は二度目の東方旅行である。兄弟は十数年前、ふとしたことからモンゴル帝国の首都に到り、皇帝からキリストの聖油を持ってくるよう命を受けて帰国していた。エルサレムのキリストの墓に灯るランプの話を、皇帝は伝え聞いていた。毎年、キリストの受難日になると灯火がひとりでに消えてしまい、復活の時刻になるとまた燃え出すという奇跡の油である。海路2500キロ、エルサレムに着いた一行はキリストの墓に詣でて、聖油を一壺もらいうけた。
 いよいよ陸路、東方への旅が始まった。それは長く苦しいものとなった。ペルシャで一行は盗賊に襲われ、隊商の人数のほとんどを失った。パミール高原、ゴビ砂漠、そして敦煌へ。わずか一壺の聖油を運ぶため、まるで何かにとりつかれたように彼らは12000キロを歩き続けた。酷寒と炎暑の中、三年半を費やす旅であった。ベニスを発つとき17歳だったマルコは、目的地についたとき20歳の青年に成長していた。
 元の首都シャンドゥに到着した一行は、早速宮殿に皇帝を訪ね、聖油を献上した。
「陛下、お約束のものでございます。数十人の人命と三年余の歳月を費やしました。わが法王グレゴリウス十世より陛下へ、大いなる親交の証と思し召しくださいませ。」
聖油を手にした皇帝はよほど嬉しかったのだろう、マルコを近臣のひとりに連ねたという。
当時、フビライ・ハーンは、甥ハイドゥの反乱対策に苦慮していた。エルサレムから運ばれた聖油は皇帝にとって何よりも心強い西洋からの味方に見えたことだろう。
 その後、彼らが開いた道を通して西と東の自由な交易がはじまった。その先鞭をつけたのは、西洋からの小さな贈りもの、一壺の聖油だったのだ。

ベーブ・ルースのサインボール

 1926年のこと。ジョニー・シルベスターという11歳の少年が落馬して、ひどい怪我をした。一命はとりとめたものの、ジョニーは寝たきりになっている。医者も原因がつかめない―たぶん精神的な理由がある―という。
 ジョニーの父親はベーブ・ルースのことを思い出した。ジョニーはルースの大ファンだ。彼の力で、息子は治るかもしれない・・・。父親はルースに連絡を取った。ルースは翌日からワールドシリーズをひかえていたが、 突然の申し出にいとも気軽に応じた。
 「よし、じゃ今日の午後、ジョニーのところへ行ってやろう。」
ルースがサインボールを持って病室へ入っていくと、ジョニーは目を見開いて驚いた。
「ジョニー、このボールはラッキーなんだぜ。早く野球ができるように元気になるんだな。よし、ワールドシリーズでは君のために特大のホームランを打ってやる。約束だ。」
 ニューヨークに帰ったルースは、この年のワールドシリーズ(対カージナルス戦)で、4本のホームランをたたき出した。ルースに会ったあと、ジョニーはめきめきと回復していったという。
 ルースが少年を見舞った話は美談として新聞で大々的に報じられた。これを「売名行為」だの「やらせ」 だのと陰口をたたく者も少なくなかったらしい。しかし、ルースが贈ったボールは、間違いなく素直な少年の心を力づけ、生きる勇気を 与えた素晴らしい贈りものであった。